稲美と清十郎がゆく①
episod.1
愛知県から岡山に向かうには、名古屋駅から新幹線に乗って行くといいだろう。
二時間くらいで到着するし、指定席の乗車券を買って、窓側の席で景色を眺めながら座っていればすぐのことだ。
稲美は昔祖父に言われた言葉を思い出しながら、窓の外を眺めていた。
「おばあちゃんの家に行くの、本当に久しぶり」
小さい頃には何度も行った記憶はあったが、大きくなってからはご無沙汰だった。
現在、彼女の祖母は病気を患って東京の病院に入院している。
そのため彼女が向かう先の生家には、誰も住んでいない。
「今のうちに休んでおかねば、後で後悔するでござるよ」
そう彼女に助言を投げかけたのは、ショルダーバックの中から顔を出すフクロウのヌイグルミ。
名を清十郎と言い、彼女の祖父から託された〝喋るヌイグルミ〟だ。
「うん……」
いつもなら清十郎のお小言に反論なり皮肉で返す稲美なのだが、今日に限ってはしおらしくうなずくだけだった。
(それもせんなきこと――かのぅ)
祖母の家は岡山県の赤磐市にある。
祖母が生まれ育った家。
そして、祖父と祖母が離れて暮らすようになってから、祖母が守ってきた家。
独逸風の建物と広い庭があって、祖母のアトリエがあった。
絵本作家だった。
アトリエの倉庫には数えきれない程の絵が保管されていて、幼い稲美はその一つ一つを手に取って、その光景の描写を祖母に嘆願したものだ。
「おばあちゃん、これは? これはどんな物語?」
「これはねぇ……」
祖母は根気よく、稲美の質問に答え続けた。
その多くは世に出る事のない物語だったに違いない。
そもそも絵本は趣味で始めたもので、本格的に仕事にしていたわけではなかった。
「おばあちゃんの絵って、すごくあったかくて、やさしい感じだったよね? 色鉛筆で描いてたからかな?」
岡山駅で一度下りた稲美は、名物の豚かば焼き弁当で腹ごしらえをした。
「ううむ、画材もそうじゃったが……モチーフは動物とか植物とっか、そういったものが多かったからのぅ。そのへんの印象もあったからでござろう」
「ふーん」
対して稲美は、あまり絵を描くことに興味が沸いた事はない。
絵を見てすごいな、上手いな、美しいなと思う事はあっても、自分でそれを生み出そうと考えた事はあまりない。
どちらかと言えば祖父に似たからだと、清十郎は言う。
「そもそも趣味で始めた絵本を売り出そうと言い出したのは、稲美の父君の発案だったでござる」
稲美の父はいわゆる実業家である。
幾つもの事業を手にかけ、ある程度成功を収めている。
その事業の中の一つに、出版関係もあったのだ。
「うん。今はもう売却した会社のことだよね」
稲美は正直、実の父の事はあまりよく知らない。
仕事に忙しかった父の代わりに稲美を育てたのは、あの放浪癖のある祖父と、絵本作家の祖母だったのだ。
母親の方は、父と一緒に飛び回っていたので、やはりあまり知らない。
誕生日とか、節目に会う程度の関係だった。
山陽本線の万富駅まで行って、そこからタクシーを拾う。
三十分くらい走って到着する。
「ふうん、手入れはちゃんとされてるんだ」
小さい丘の上に、ぽつんと祖母の生家があった。
「父君が手配して、家と庭の管理を業者に委託しているはずでござるからのう。東京への入院を勧めたのも父君で、確か知り合いの医者がやってい――」
「はいはい、お父さんはちゃんとしてますよ。知ってるよ、それくらい。……まったく、いっつも清十郎はお父さんの肩をもつんだから」
稲美の父が生まれた時、既に清十郎は祖父の傍らにいた。
清十郎にとって祖父は友人であり、父は友人の息子といったところだろう。父の小さい頃の遊び相手も務めているから、父も清十郎には頭があがらないと聞いたことがある。
しかし稲美の記憶の中で、父と清十郎が親しく会話をしている事は皆無だ。
(お父さんは秘密主義だし、清十郎は聞いてもはぐらかすからなー……)
事前に預かっていた鍵を取り出して、家に入る。
中も綺麗に掃除されている。
稲美は真っ先にアトリエに向かい、そこで目当てのものを探す。
「おばあちゃんが言うには、ここにある筈なんだけど」
暖炉の脇には、巧妙に隠してあったが地下への入り口があった。
残念ながら階段なんて豪華なものはなく、細い縦穴の中と鉄製の梯子がそこにはあった。
地下にはアトリエより少し広い空間が広がっていた。
そこには祖父が趣味で集めたであろう葡萄酒が保管されていた。
「こっちの棚に……あった、これだ」
稲美が手に取ったのは、一冊のスケッチブックだった。
ページをめくっていくと、様々な風景が描かれている。
そこにはかつての祖父と祖母と、そして清十郎の姿も。
「これなのね……?」
稲美は清十郎に同意を求めた、
そして清十郎はうなずく。
「いかにも。その本に描かれた景色こそ、半世紀程前に〝門が開かれた場所〟でござる」
門……。
稲美はその場所を探していた。
それは、一年前に忽然とこの世界から姿を消してしまった祖父の痕跡をたどる、唯一の手掛かりだった。
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